東京オリンピックと新幹線展はデザイン、大衆文化の展示として楽しい

まとめ

江戸東京博物館東京オリンピックと新幹線展にいってきた

江戸東京博物館らしい、庶民の風俗に基づいた展示が楽しい

東京オリンピック新幹線0系は日本における"デザイン"の芽生えが見えるのでオススメ


f:id:k_n0ko:20141114020102j:plain


つい先日、フォロワーさんに誘われて江戸東京博物館の「東京オリンピックと新幹線」展に行ってきた。


ポスターに強い興味を惹かれてツイートしたものの、誘ってもらわなければ忘れてたくらい最近忙しくて、つかの間の休息だった。


内容は3部構成。

戦後の復興期の日本の文化の説明

新幹線に関する記念品などの展示解説

東京オリンピックパラリンピックに関する記念品などの展示


復興期の日本の文化は、カストリ紙が何冊も展示してあったり、家電三種の神器が展示してあったり、歴史の資料集をめくるような楽しさがある。

最後のオリンピック・パラリンピックの展示でも言えることだけど、「当時、名もなき庶民の生活がどの様に変わっていったのか」を丁寧に追いかけている印象だった。

○○に尽力した人の展示は興味深くもあるけれど、有る程度資料も散逸せずに、体系だった記録を追いかける展示になりがちだ。

正直わざわざ入場料を払ってガラスの向こうの実物を眺めずとも、研究結果を纏めた本をいくつか読めば済む話だったりする。


庶民の歴史、当たり前のことはなかなか記録に残らない。

フロッピーやMDプレイヤーやストリップバーなんかが忘れ去られていくように、いつの間にか消えていく。

だから、東京オリンピックを機にゴミ出しの方法が変更となったことは貴重な記録だ。皆様お馴染みの「青い円筒状のポリバケツ」が路上に登場するのは、東京オリンピック直前以降である。

…ということとかが見えてなかなか楽しい。

イデオロギー抜きで庶民目線の展示を行えるのって、なかなか難しいことなんじゃないかな。なんて思う。

中学校の頃の社会科資料集を見るあのワクワク感をちょっぴり思い出させてくれる展示は魅力的でした。



そして、デザインのお話。

新幹線に関する展示は大衆風俗よりも、"日本における車両デザインの原点"と"技術者の叡智の結集"のような文脈が重視されている。


新幹線エリアの展示物自体は鉄道系の博物館に何回か行っていれば見たことがあるような…ごにょごにょ、みたいなものが多い。記念品とか、雑誌の切り抜きとか。


注目は、新幹線の車両デザインに関する展示。特急車や寝台車なんかより更にワンランク上、夢の超特急に相応しいデザインとは何か。

鉄道車両において"デザイン"が意識されるとても貴重なタイミングだった。


最近はJR九州の車両を手掛ける、水戸岡氏のインタビューがテレビで流されたりして、"鉄道車両のインテリア・エクステリアデザイン"がマニア以外の人達にも意識されるようになったと思う。その原点をこの展示でじっくりと見ることができる。


0系新幹線は超高速度運転のためにシステムやメカニックの技術を大きく発展させた。

だけでなく、それをインテリアの部分からサポートするトータルデザインが必要なものとされ、実際の車両に組み込まれた。


豪華で煌びやかなものではなく、5年という超短期計画の中で、あくまで新幹線の速達性を助けるためのデザイン。その当たり前をデザインすることの意味が、関係者の言葉や図面を通して伝わってくるようだった。


……で、新幹線だけならこんな記事はかかない。展示の中で詳しくは述べられていないけれど、東京オリンピックは日本におけるサインシステムの原点だ。


言語が通じなくても、下地となる文化が異なっても、共通言語として存在するサインシステム。

見やすさ、分かりやすさを手探りで追求した、デザインの実験場でもあった東京オリンピックの姿を実感出来る展示が、最後の東京オリンピックパラリンピックコーナーには詰まっている。


「戦後のニッポンに希望を与えた新幹線、オリンピック」ではなく、「戦後デザイン黎明期における試行錯誤の跡」として、ぜひ楽しんで見て欲しい。


で、興味をもったらこの本を読んでみてほしい。



サインシステム計画学: 公共空間と記号の体系

サインシステム計画学: 公共空間と記号の体系


営団地下鉄のサインシステム計画学 などに携わった赤瀬氏による、サインの研究本東京オリンピック大阪万博におけるサインの歴史から、営団サインについてなど。

お高いしとっつきにくく思えるけど、デザイン・サイン・公共スペースなんかに興味があればぶっちぎりのオススメです。


そんな堅苦しいことが言いたいんじゃなくて、デザインって面白いよねっていうのを共有したいだけだったような気もします。

それでは。




色々な病気の例

ドクターショッピングとまではいかないけど、休職して時間が出来てから、色々な病院に通った。忘れないように、これも記録しておきたい。

まとめ

心療内科三件分の感想

・睡眠外来と過眠症の診断条件

・カウンセリングの感想

 

f:id:k_n0ko:20140908214431j:plain

心療内科・・・3件

なんとかメンタルクリニックとか、そういうところだ。

最初に駆け込んで、診断が上手くいかず、違う症状向けの薬をもらったところ。

とりあえずAにしよう。

Aはマンションの一室で開業していた。隣も病院だったような、アロマテラピーだったような…

部屋中にローズ系のアロマの香りが満ちていて、待合室(マンション的には居間)にテレビとソファがあった。紙のテストは最初の一枚だけ。

Aの先生はかなり特徴的なまったりした喋りをする人で、診察室として使われる個室も、アロマの香りが満ちて、造花のバラや人形が飾ってあった。

私の言うことを一切否定せずに、肯定的な言葉のみでやり取りする。

優しい人だな、とは思った。でも診断は間違ったまま方向を変えようとしないし、その薬は効くわけもなく、無言で転院した。

それなりに、人は来ていたのかもしれない。

 

次はB。Aからの転院先。ここはかなりあっさりした先生で、会社からの金も貰えるものならもらっとけって感じだし、分からないものはわからないですから、と言い切る先生だった。

初回が時間外だったにも関わらず私を診てくれたことから、結構信頼していて、

様々な紙のテストを受けさせられて、ちょっとずつ病状を絞り込んでいってくれた。

おかげ様で、なんとか症状が落ち着いた。結局ここをメインの心療内科にしている。

見ていると、女医さんだからか、私服の女性が多くてとても心療内科には見えない。

でも、みんな、辛いんだろう。

 

最後のCはBでいつまでたっても症状が確定しない苛立ちから、セカンドオピニオンとして一回だけお世話になった。友人お勧めの院長先生の予約を取るのが至難の業で、予約の一か月後に診てもらって、結局セカンドオピニオンだしね…と症状の断定はしてくれなかった。

この時期はかなり睡眠が不安定で、日中に寝る(もちろん夜も寝る)ことが多くて、それを伝えると睡眠外来を受信するように言われた。

 

・睡眠外来・・・1件

睡眠外来、馴染みのない単語かもしれない。不眠症や過眠症、睡眠リズムの乱れ等を主な診療担当とする病院で、診断の調子なんかは心療内科に近い。

私は過眠症気味で、昼間眠くて眠くて仕方がなかったから、そちらにお世話になったのだけど、結局薬等で治療をしてもらうには至らなかった。

うつ状態の時は睡眠リズムが乱れることが多く、「二週間以上その薬を絶たないと睡眠以上とは診断できない」と言われた。

通常お医者さんや、薬局では睡眠導入剤等と対極にある”覚醒する薬”はないことになっているけど、その手の薬は実在する。

でも過眠症は稀な疾患であるため、一定の審査に通った者にしか処方が出来ない。

診断は以下の通り。

・東京の場合代々木にある検査施設で夕方から翌夕方までの泊り検査を受ける。

・予約は一か月以上取れない、費用は3万円ちょっと。

・個室で夜寝た後の翌日が検査で、二時間に一回寝るように言われる。そこで規定時間(5分?)内に寝ていることが規定回数以上確認できて、夜間睡眠に異常がないこと。

その条件を満たせば、晴れて過眠症患者だ。

結局、鬱が治って仕事に復帰したタイミングで、カフェインが効かず昼間の眠気に悩まされるようならもう一度来てください、とのことだった。

私は面倒なので、今は薬局で買える薬でどこまで覚醒し続けられるか試している。

もしこの条件をクリアできそうで、昼間の過度の眠気に悩まされているなら、一度くらい受診してもいいかもしれない。

 

・カウンセリング・・・1件

ここが一番長期で通っている。

現状を話す人すらいなかった私には救いだったし、精神療法に裏付けられた様々なドリルのような対処法を提案し、一緒に実践してくれる。

保険適用外なので、かなり財布には痛手だけど、もうしばらく通うつもりでいる。

カウンセリングは胡散臭いところが多いし、できれば友人知人の紹介があるところがいいと思う。また、すぐに効果が出るものでもないし、費用対効果は薬より決していいとは言えないから、あまりお勧めはできない。

でも、人生の岐路に立たされていると感じる時は、彼らの助言は有用に感じることもあるので、アドバイザーとしての立場でいてもらうのが妥当かな…なんて思っている。

 

色々な病院にいった。

でも数か月たった今も、寛解しているとは言いがたい。

出来ることなら、トイレの床で泣きながら転げまわる前に、何らかの対処をしておきたかったと思っている。

ちょっと前のこと

まとめ

・小学校から高校までの自分語り。

・絵も画材も捨てられたけど描き続けてた話。

・でもこういうのって受注には結びつかないよね。

 f:id:k_n0ko:20140827211907j:plain

 

小学校の頃、実家にはかなり早くからパソコンがあった。

インターネットはつながっていて、2ちゃんねるのフラッシュ板や、

イラスト創作ランキングに入り浸っていた。

流石兄弟やギコしぃ…もちろん誰にも通じなかった。

 

 

創作サイトに影響されてイラストを描き始めて、教室で一人でいることが増えて…

つまるところぼっちを拗らせていった。

そのまま近所の中学校に進学しても、生活は変わらなかった。

「キモチワルイ」「なんか変わってるよねー」は聞き飽きた。

家でもずっと描いてたから、目に見えて成績が下がった。

 

怒った母は絵をひったくってゴミ箱へ。

お小遣いで買い集めたネオピコ(コピックの廉価版)は家の中のどこかへ。

仕方ないから、学校で買った水彩と100均で買った色鉛筆で描き続けた。

父が誕生日にペンタブをくれてからは、家族が寝静まるのを待ってPCで絵を描いた。(当時は共用PCしかなかったんだよね)

 

中学卒業後は家にいたくなくて、1時間以上かかる高校に進学した。

そこには絵を見せ合う友人も、文化祭ポスターを褒めてくれるクラスメイトもいた。

この時初めて、「絵を仕事にしたいな」と思った。

皆がほめてくれるから、錯覚していたのかもしれない。

インターネットには僕より絵が上手い人で溢れていたけど、

きっと僕の絵を好きになってくれる人がいる!そう信じてサイトにアップし続けた。

文化祭では有志で手書きアニメを作ったり、3メートル以上あるキャラを作ったり…

とても幸せだった。

 

受験が近づいて、美大に行きたいと話に母したけど、

あんたが入れるわけない!と一蹴された。母は父に一切相談しなかったらしく

某私大法学部の入学の手続きの一切を済ませたあと、父に

 

「美大、行きたかったんだ。言ってくれれば幾らでも応援してあげたのに」

 

そう言われて、涙もでなかった。

”めのまえが まっくらになった”ってこういうことか。

 

そうか、僕は絵を仕事にしちゃいけないんだ。

踏みにじられて茶色に変色した桜を見ながら、校舎を後にした。

休職するまでってこんな感じ

まとめ

・営業事務の仕事が合わなかった。

心療内科に行ってみた。

・休職願いを出した。

f:id:k_n0ko:20140826160025j:plain

 

初めてで、はてなの使い方がわからない。

名前を出すのは、良くも悪くも、自分に帰責させたいから。

そして、忘れないように思ったことを記録しておきたいから、はてなを始めた。

…なんて能書きは置いておいて現状を話そう。

 

僕は東証一部上場メーカーの事務員だった。

長期の研修を終えて、配属一年目。仕事は営業事務。

支店と、それから自社及び他社工場の間を取り持つパイプ役だった。

残業体質の支店と、定時で帰りたがる工場の間で、半べそかきながら納期や価格を調整する仕事だ。

毎朝の朝礼で「コストしか生まない部署」と発破をかけられ、”いらない人間だから、ここに配属されたんだ”という考えが日々強くなっていった。

 

部署に関していい話は聞かなくて、僕が休職してから、部のトップだった役員が更迭されたと聞いた。遠くない内に部署ごと無くなるだろうと専らの噂だった。

 

理由は省く(もしかしたら、後で書くかもしれない)けど、僕はその配属半年で休職した。

OJTが落ち着いて、自分の担当を持った直後だ。

仕事が終わらず昼休みも取れず、残った10分で会社のトイレの床で号泣しながら転げ回る日が続いた。

”これはやばいかも”と思って会社の近くの心療内科に駆け込んだ。

処方薬はリスパダールワイパックス

どちらも統合失調症をメインに処方される薬だ。

結論から言うと、どっちも効かなかった。

 

PCでメールを打ちながら、発注入力しながら、涙が止まらず電話も涙声で、仲良くしてくれていた担当者の方にも心配された。心配してもらうなんて部署ではあり得なくて、その優しさで余計泣いた。

 

初診から一か月後、上長に某ファミレスで、時間をとってもらって、休むための了解をもらった。

 

入力する文字が霞んで見えたし、電話も半分くらいしか聞こえなかった。

もちろんメールは何回も読み返さないと、意図がつかめなかった。

先輩との会話なんて、外国語に聞こえた。

 

 「ごめんなさい、もう、無理です」

 

その一言が出せるまでに、時間がかかった。

就活もこの会社しか通らなくて、そこで休職するなんて、人として失格だと感じた。

「無理しなくていいから。僕も同じで二年目に営業から異動したんだ。」

上長はそう言って休みの許可をくれた。

3日ほど業務の引継ぎをして、僕はちょっと長い夏休みを手に入れた。