「分不相応」という諦め方

人は何かを諦める時に理由をつけたがる生き物だなと思う。
「お金がないから」とか「タイミングが悪かった」とか、様々な理由があるけど、私には「自分には分不相応だ」という考え方をして諦めるクセがある。

分不相応だというのは物分りがいいようでいて、自尊心と自責感がうまいことバランスする使い勝手のいい言葉だ。
「分不相応だから」というのは「タイミングや準備に不備はなかった」が「自分の生まれ持った気質に阻まれ」た結果「目的が達成されなかった」という文脈をもつように思う。
つまり自分の行動の結果を肯定して自尊心を満たしつつ、正体を掴みにくい自分の性質を否定することで自罰意識を持って「反省した」という実感も得ることが出来る。
自分の努力を肯定する部分は金や他人に原因を押し付ける部分と似ているけれど、自分の気質に原因を見出すことで、「自分以外に原因を押し付けなかった」という贖罪を行える点が大きく異なる。
変え難い性質を否定したところで、その後の結果の好転につながることはない。本当にその結果を得たければ行動を見直して、問題点を潰していく必要がある。
その努力を怠り、“反省した感”だけを手に入れるのだ。
これを卑怯と呼ばずなんと呼ぼう。

勿論この言い訳が必要な時もある。過去への未練を急いで断ち切って前に進まなければならない就職活動時とか、今後ともその成果を手に入れる必要がない時は、この方法は有効だと思う。

ただ、結果を手に入れたいなら、自分の管理ができる範囲の行動を見直して、改善していくしかない。自分を見捨てず、かといって甘やかさずに行動を続けていくことってすごく難しいのだけど、これをしていかないと自己憐憫の井戸の中から出られなくなってしまうだろう。

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