隣で一緒に歩いているような、不思議な本ーさいはて紀行/金原みわ

インターネットやパソコンが普及して、情報発信の敷居が下がって、「その人のありかた」に触れる敷居もめちゃくちゃ下がった。本当に多様で、選択肢がありすぎて、結構ドキドキする。

金原みわさんは、その「ありかた」で人との距離をリアルタイムに変えていくような方だ。 もちろん、お会いしたこともないのだから、勝手な想像だけれど。

珍スポットに対して、最初は怖々だったり興味本位だったりから始まるのに、その距離を感じさせることなく気負った風など見せずにいつの間にか隣で一緒に楽しんでいる。そんな風景が文章を読んでいて想像できるし、その言葉で対象だけでなく、読者とも距離を縮めていく。
なんだか一緒に珍スポットを旅しているみたいで、距離感がわからなくなる。

罪のさいはての中で、とても印象に残るフレーズがあった。

“もしかしたら、私がハサミを使う側だったのかもしれない。そんなことを思った。”

刑務所の美容院で髪を切られながらそう考える、そのことが、みわさんの書かれる文章の温度感を作っているのかもしれないと思った。
珍スポットは檻の向こうの動物やステージのショーみたいな、僕らと全く異なる世界ではなくて、いつもは通り過ぎる道を曲がってみた先にある風景のような、些細なきっかけで触れ合う地続きの世界なんだと感じさせてくれる。

気取らずに無邪気に、でも、とても丁寧に、話しながら歩くみたいな速度で、さいはてに向かってゆく。ゆっくりと紡がれるような文章に、大慌てで組み上げる書評は似つかわしくないのかもしれない。
ふらっと散歩に出るような感覚でまた何度でも読み返したい。

本当に永青文庫の展示で満足? 鬼畜系エロ好きは『銀座春画展』に行くべき

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永青文庫春画展、行きましたか。

現代日本のAV・エロ漫画の原点。
 
春画見ながら「デカすぎありえねぇ〜」と笑っているカップルがそこここにいる、ジョンレノンがイマジンを歌い出しそうなこの光景。マジ、ラブアンドピース。思わず「絵の前で止まっていつまでもチ○コ感想言い合ってんじゃねぇ」と言いたいのをぐっとこらえ、展示の一番最後のフロアに向かう。多くの人が集中力も会話も使い果たした最後のフロアは1枚の絵の前にとどまる時間が短いため、自分のペースで楽しめるのでオススメです。
名刺より一回り大きいサイズの豆本に執拗に施された空摺りは「変態」の一言に尽きるし、金銀雲母を用いた細川家所蔵の春画は、同人作家永遠の理想だった。金に糸目つけずに本作ってみたいよね…
 
SNS向けのイベント行ってきたアピールなら、これで「春画展行ってきた〜」と言いながら永青文庫の外環写真をアップすれば充分なわけだけど、なんとなく物足りなくないですか。というか和姦ばっかりでそろそろ飽きてきませんか。
 

衆道あり、強姦あり、獣姦ありの、銀座春画

www.shunga.gallery

 

銀座春画展の展示ボリュームは、かなり小さい。しかしその分は、解説の丁寧さ、iPadを用いたデータ展示によって補強されている。2014年にセカンドライフ上で行われた展示がベースとなっており、春画の展示とともに「様々な規制・制約がある中で春画を展示する意義」にも触れているのも興味深い切り口だ。

展示は3フロア。1階は春画の歴史をそれが規制された歴史とともにざっくり触れ、2階は北斎の『萬福和合神』を中心にして文字を含めた春画の楽しみ方を説明してくれる。3階はミュージアムショップだ。『萬福和合神』は春画の中でも珍しいストーリー仕立てで、幼馴染の色好みの女性二人の生涯を絵と文を交えて綴っていく。片方は裕福な家庭の生まれ、もう一方は貧しい生まれ。生まれは違えど色好みな性格は一緒で、その性格ゆえにそれぞれ波乱万丈な人生を歩んでいく…途中、宿を求めて転々とする間に強姦にあって呆然とする描写があったり「綺麗なものだけではない」性の描写は、ご先祖様の性癖バリエーションを実感することができる。
 
“日本で春画を展示すること”そのものが大きな目的となっていた永青文庫春画展は関係者の方の並々ならぬ配慮に支えられているのだと強く感じた。切り口も王道中の王道なのだと思う。もちろん銀座春画展の配慮が足りないのではなく、切り口の違いで、こっちはかなりサブカルエロ方面に振れているというだけで。そもそも永青文庫の展示がなければ、この銀座春画展もなかっただろう。
永青文庫春画展を皮切りに、春画を一律タブーとみなすのではなく、「春画の超絶技巧」とか、「春画から庶民の生活を覗く」とか、様々な切り口の展示が増えるとしたら、こんな素晴らしいことはないと思う。
 
なんにせよ、永青文庫のラブアンドピースで心が荒んだ皆さんは、銀座春画展に足を運んでみてはいかがでしょう。

鉛筆落書き垂れ流しマンがアウトプットを省力化する

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ハロー兄弟、残業してるかい?


様々な兼業作家さんが若くして命を落としていくのを見ると、一芸に秀でた人が食える世の中って難しいなとつくづく思う。
 
「ある程度の形を保った」アウトプットはそれなりの気力と体力がいる。それは文字でも絵でも音楽でも手芸でもなんでも変わらない、と思う。世の中には生保の営業課長職とイラストレーターを兼業できたり、玩具の営業マンと漫画の連載を並行できる人は確かに存在する。
でも「あの人は天才だから…」とか「情熱が段違いだから…」とか、不必要なボーダーを自分との間に引くのは勿体無いなぁと最近思うようになった。別に日本中に自分のイラストが書いたポスターが貼られてほしいわけでもないし、巨万の富や名声を得たいわけでもない。「この人は○○が出来る」と認知されて、それを通して新しい繋がりが出来れば十分だ。そしてそれだって、結構パワーを使う。ただでさえ少ない気力、無駄にするのは勿体無い。
 

正解はスタイラス+タブレット

自分が絵を描くのに一番の障壁になっていたのは「物が積み上がった机を片付けて、パソコンを起動すること」だった。

正真正銘のクズだ。
だって面倒じゃん。
ていうか会社で12時間以上パソコンに向かって作業してて、家帰ってまでパソコンつける気にならないでしょ…そのあたりで押入れで寝ていたkindle存在を思い出したので、bamboo paperをインストールして新宿のヨドバシでひたすら試し書きをしてきた。
 

インターネット落書きマンにオススメする「一度描いた線をなぞれるスタイラスペン」

1000円前後のものはゲームの操作性をうたっているものが多く、画面に当てた時の感覚やペンの重さがいまいち。耐久性も期待できなさそう。
5000円以上する電池が必要なタイプは初心者には敷居が高過ぎるし、そもそも実物が店頭に出てないので今回はナシ。
 
結局2000円程度のもので、試したのはペン先が異なる3タイプ
→良くも悪くも描き心地が筆。筆のどの辺りが画面に当たっているのかわかりづらいので漫画のような絵には不向き…厚塗りにはよさそう。
導電繊維
→画面に当てた時にペン先が少し凹む感覚が気持ち悪い。画面に描画される線はスムーズで一番お手軽だ。
バネ+透明な十字プラスチック
→カリッとした線が引けてびっくりする。ただ判定がシビアすぎて、一度途絶えた線をなぞるのは不可能に近い。そして店頭サンプルの幾つかはバネが飛び出しているので耐久性は難あり。
 
どれも、アナログからペンタブに移行した時のような「扱いづらさ」は感じた。こればっかりは金でどうこうできる話じゃないだろう。結局、導電繊維タイプでペン先を交換できるBamboo Stylus soloを買ってきた。店頭で1800円ほど。アマゾンだと1600円程度だった。

 

最後はアプリとの相性

bamboo paperを使って円を描こうとするとどうしても線が途中で途切れてしまう。スタイラスペンの限界かなぁと思ったけど、アプリを変えたら改善された。
今使っているのは「ArtFlowStudio」
ポイントは
kindleをroot化せずともダウンロードできる
・レイヤーがある(無料版は2枚まで)
・psdに書き出せる(有料版のみ)
の3つ。
もちろん途中で線が途切れたりしないし、しばらく使って課金した。今のところこれで十分快適だ。
 
appだともっと種類があるので、これからお絵描き目的でタブレットを買うならiPadを買う方がいいと思う。スタイラスペンもiPadのみ対応という機種もあるので、選択肢が少し狭まってしまう。
 
kindle+スタイラスペンを持ち歩くようになってから、絵を投稿する機会が圧倒的に増えた。このまま習慣づけて「あぁこの人の絵はこんな雰囲気なのね」と思ってもらえるようにしたいし、いずれはタンブラーとかでまとめて閲覧できるようにしたい。
なんにせよアウトプット手法は極力省力化した方がいいですよ。
 

「分不相応」という諦め方

人は何かを諦める時に理由をつけたがる生き物だなと思う。
「お金がないから」とか「タイミングが悪かった」とか、様々な理由があるけど、私には「自分には分不相応だ」という考え方をして諦めるクセがある。

分不相応だというのは物分りがいいようでいて、自尊心と自責感がうまいことバランスする使い勝手のいい言葉だ。
「分不相応だから」というのは「タイミングや準備に不備はなかった」が「自分の生まれ持った気質に阻まれ」た結果「目的が達成されなかった」という文脈をもつように思う。
つまり自分の行動の結果を肯定して自尊心を満たしつつ、正体を掴みにくい自分の性質を否定することで自罰意識を持って「反省した」という実感も得ることが出来る。
自分の努力を肯定する部分は金や他人に原因を押し付ける部分と似ているけれど、自分の気質に原因を見出すことで、「自分以外に原因を押し付けなかった」という贖罪を行える点が大きく異なる。
変え難い性質を否定したところで、その後の結果の好転につながることはない。本当にその結果を得たければ行動を見直して、問題点を潰していく必要がある。
その努力を怠り、“反省した感”だけを手に入れるのだ。
これを卑怯と呼ばずなんと呼ぼう。

勿論この言い訳が必要な時もある。過去への未練を急いで断ち切って前に進まなければならない就職活動時とか、今後ともその成果を手に入れる必要がない時は、この方法は有効だと思う。

ただ、結果を手に入れたいなら、自分の管理ができる範囲の行動を見直して、改善していくしかない。自分を見捨てず、かといって甘やかさずに行動を続けていくことってすごく難しいのだけど、これをしていかないと自己憐憫の井戸の中から出られなくなってしまうだろう。

今日のBGM

マッドマックス 怒りのデスロード

見た。やっと見た。
こんなに「ゴタクはいいからとりあえず、見ようぜ!!!!!」みたいになる映画初めてだったので、感情を持て余しながらこれ書いてる。

音がでけーのはいいことだし、アクションが現実味ないほどド派手なのもいいことだし、装甲車がデカすぎるのもすごくいい。とてもいい。
頭の悪いスチームパンク的なゴタゴタした車が見渡す限り水平線しかない砂漠を爆走してて、コントラストがとても映える。
圧倒的なかっこよさ。
圧倒的な質量。
圧倒的な力。

一番鳥肌がたったのは武器将軍がレクイエムをバックに「死の聖歌の指揮者だ!」とか叫びながらマシンガンを乱射するところ。今まではこの静のシーンのための壮大な前振りだったんじゃないかくらいのインパクト。

色々考察するんじゃなく、ドーフ・ワゴンの太鼓とかを腹に感じながらライブと同じような楽しみ方がすっごくよくて、「あぁこれは映画館で見てこそかもなぁ」という感じだった。
なるたけ音がデカイとこで見よう。

“V8を讃えよ!!”


そして最後にこれだけは言っておきたい。

ニュークスお前可愛すぎか!!!!!!!!







絵を描くという呪い

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久しぶりにはてなブログにやってきたので、はい。はい。とローストされた肉の写真を大量に載せたブログを書くつもりだった。

でも冷蔵庫には腐った鶏肉しか入ってない。

貧乏は敵だ。

 

まとめ

・「絵を描くのをやめてみたら幻想が解けた話 」に触発された懺悔。

大体承認欲求の話。

 

 

 

先日こんな文章を読んだ。

絵を描くのをやめてみたら幻想が解けた話 - はてな匿名ダイアリー http://anond.hatelabo.jp/20141201164139

 絵は、紙とペンさえあればかける。

なんならどっちもいらない。

息を吹きかけて白くくすんだガラスの窓に指を当てて、思うがままに動かせばいい。

 

私はそんな、幼稚で、稚拙で、ストレートな表現方法に、自分の理想を重ねて10年以上絵を描き続けてきた。

山積みの雑務に忙殺されてやる気をなくしたりとか、口汚く新しい手法を馬鹿にする裏で必死にそれを勉強してみたりとか、大量に同人誌の在庫抱えてみたりとか、人並みのあれこれを経験してきたつもりでいる(けど、それは驕りかもしれない)。

 

この増田を書いた人の過去や現況を知るすべはないけれど、「ずっと自分は絵を描き続けていなければダメになるタイプ人間なのだ」と私も思っていた。

 

そう思っていたかったのだと思う。

絵を描ける人間としての自分はそれなりに必要としてくれる人がいたし、「絵を描かないとダメだ」と常にプレッシャーを与えていれば、その間は、人よりひどく劣った部分(コミュニケ―ション能力とか)から逃れられる。

そして、絵を描けなくなれば全ての人から見捨てられるような思い込みに囚われていた。

 

なんて過大な自己評価!

 

そんな評価をもらえるほど絵が上手いはずもなく、私のそばにいてくれる人たちの心がそんなに狭いはずもなく。

馬鹿馬鹿しく、しかしとても強い思い込みは、環境が変わるにしたがって少しずつ溶けていった。目に見えるほどに小さくなってやっと「思い込んでいたこと」を認識できるようになって、自分の力で思い込みをコントロール出来るようになった。

 

金銭に交換可能な技能を求められるほどの人間ではないこと。

だから、今の交友関係は大切にしていきたいこと。

 

そして、別の軸の話として「金銭に交換可能な技能をもった人間」と認識してもらえることは生存を助けると思うので、今度は自分であるためになんて立派なお題目じゃなく、生活のためにやっていくかな…というところ。

 

ホームレスの可能性がすぐそばで口を開けていて、すわ夜逃げかという生活はこの先何年も続けたくないし、一か月の仕事のうち何時間かは、酒を飲んだり音楽を聴きながらしたいよねえという話だった。

 

ベイマックスの登場で日本のアニメは死んだのか

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もともと近代建築クラスタなので、映画の中の町並みが「近代東京とサンフランシスコのいいとこどり」かつ「近未来設定のSF」なので見たいなーと思っていた。
ところにこのツイートを見かけて、俄然見に行きたくなった。

で、正月に実家に帰ると、監督ジョン・ラセターのインタビューをベースにした番組が録画されているわけで…
魔法の映画はこうして生まれる~ジョン・ラセターとディズニー・アニメーション~
https://pid.nhk.or.jp/pid04/ProgramIntro/Show.do?pkey=302-20141129-21-16301
ようやく見に行ったのだけど、いやもう、ほんと楽しかった。面白かった。
ピクサーとかデジタル化以降のディズニーアニメって、なんとなく感情表現の過剰さ、ストーリーの素直さ(これらがバタくさいってものだろうか)が鼻について、なおかつ3D独特のべったり感や、ハイライト・影の入り方が苦手で、足が遠のいていた。
そんな苦手意識がそっくりそのままイイネ!にかわってしまうくらい、よかった。

なんでだろう。

 

1、普遍的なこと

一点、技術の進歩だと思う。
どんないいストーリーだって、小説で表現が稚拙だったり漫画で絵が下手だったりすれば、手に取る人は減る。
パソコンスペックは信じられないスピードであがっていく。僕が大学に入るころ1000円のUSBって2GBだった。4年たって出てくるころには8GBが1000円で売っていて、時代流れ早すぎんなって感じだ。その結果質感や、色味が、セルアニメのような「アナログ感」のある、目に優しいムラのある感覚を「こだわれば拘るだけ再現できる」ようになった。
昔は拘ろうとしてもマシンスペック的に限界のあった領域まで、踏み込めるようになった。これは、アナログのマンパワーで仕掛けていたような宮崎アニメと対比させるのに、とても大きいなと思う。細かい感情表現を実現させるだけのマシンパワーがアナログとデジタルの境界を溶かした。

もう一つは、ストーリーが勧善懲悪じゃなくて火サスっぽい。
「悪役にもつらい過去があるんだ」みたいなストーリー、とても日本好みだと思う。火サスにおいて、荒れ狂う日本海に身投げする犯人は、彼らなりの理論にのっとって本当の悪役を恨んだ結果凶行に及ぶ場合が多いように思う。
火サスじゃないけど、半沢直樹なんかもそのタイプと思う。殺人こそおかさないが、企業人生における殺人と同等と思われる攻撃を、大和田にくらわせている。大体、犯行の動機に関わる悪役は一見いい人で世渡り上手タイプなのも面白い…というのは余談。
犯人は「倫理の道は踏み外していても、正義の道を歩んでいる」そんなストーリーに僕らはかなり親しんでいる。
それに加えて、合間合間に挟まれるロボットを擬人化したようなアトム的とも言える表現や、くど過ぎない笑い。この塩梅をディズニーが…というかジョン・ラセターが日本アニメを研究し尽くして心得てリリースしてきた、この辺りが「普遍的な日本人」に与えた大きなインパクトかなと思う。

 

2、僕らオタクにとって

もう一つ気になるのがオタク層へのインパクトだと思う。「日本のアニメは死んだ」とわらわら人が集まる理由はそこにあるのかな…
ベイマックス、多分、「アナと雪の女王」とは同様の扱いはされないだろう。それはこのストーリーが、一部のアニメにありがちな、僕ら「スクールカースト下位」によるスカッとする妄想談にすぎないからだと思う。
気取った調子で喋って、頭が良くて、社会に貢献してたり一部の社会では最強…でも彼女・彼氏といった標準(とされる)ステータスは持ち合わせてない…そんなナード・ギーク層の逆襲劇だと、強く感じた。翻訳版で見たせいかもしれないけど、主人公以外の若い主要登場人物は「科学オタク」という呼称があてられている。
彼らが八面六臂の活躍を見せ、「正体不明の覆面ヒーローが自らの知識を活かしてこの街を救って町中の人間に感謝されている」というストーリーに、目を潤ませた人も少なくないのではないだろうか。

 

加えて、ベイマックスには異性愛要素がびっくりするくらいない。映画の尺だと、「上映時間の範囲で示せる強い感情」の符丁として異性愛の存在を示すことがかなり多い。しかし、それもない。ただ「兄という肉親への愛」がベースにある。
肉親への愛は、しかも自分にとても協力的だった人への愛は誰にとっても共感できるものだと思う。だからこそ、このヒットなのだと感じた。
邪推だろうか。

「爪弾きもの」を救うのは、日本ではテレビアニメだった。結構な数のアニメが「普段は冴えないけど、本当の俺・私はすごい」という設定に基づいて、SF舞台だったり幕末舞台だったり…様々なシチュエーションで消費されてきた。(むしろ、世界中の爪弾きものを救ったかもしれないし、個人的にはそれがクールジャパンの源流だと思っている。)
だからこそ、それらを研究してオマージュしたベイマックスという作品に僕らは心惹かれるのだ。ぼーっとしてれば気付かない小ネタに胸をときめかせたり、日本的KAWAIIを体現したベイマックスに親しみやすさを感じたりする。

 

3.だからどうするの

ジブリ解散はない!宮崎駿が語っていた「風立ちぬ」の次の映画

http://lite-ra.com/i/2014/08/post-310-entry.html
一消費者として、ベイマックスなんか気にせず「俺がこれサイコーだって思うわ!」と感じるものを作って欲しいという感情はある(それがドンピシャなら、ホームラン級の当たりだから)。
でも、一企業人としては「金にならないものは作れない」という感覚はとっても理解できる。ターゲットを広く取らなければ、人を雇用し、作品を作って公開するだけの費用は集まらない。僕一人がどうにか足掻いたところでコンテンツを支えるだけの力はないんだなーなんて思ったりする。

情報過多の時代に「あの大ヒット作の監督による次回作!」みたいなタイトルに惹かれるのはとってもわかる。作品が多すぎて、選別が難しい。みんな間違いのないフィルターを、それによって選別された作品を求めている。だからこそ、一度そういうフィルターをとっぱらって選択肢の海に飛び込んでいきたいなと思う。

そうして、僕らが自分の力で「目」を養っていくことで、このお通夜みたいな雰囲気、ちょっとはよくなるんじゃないかなって思っている。

自分の性癖にあった浮世絵師はたとえ最初目が出なくても買い続けてやるよ、みたいな江戸っ子気質が今一番必要なのかもなーって。

 

説教くさくなってしまった。酒のせいだね。