隣で一緒に歩いているような、不思議な本ーさいはて紀行/金原みわ
本当に永青文庫の展示で満足? 鬼畜系エロ好きは『銀座春画展』に行くべき
衆道あり、強姦あり、獣姦ありの、銀座春画展
銀座春画展の展示ボリュームは、かなり小さい。しかしその分は、解説の丁寧さ、iPadを用いたデータ展示によって補強されている。2014年にセカンドライフ上で行われた展示がベースとなっており、春画の展示とともに「様々な規制・制約がある中で春画を展示する意義」にも触れているのも興味深い切り口だ。
鉛筆落書き垂れ流しマンがアウトプットを省力化する
ハロー兄弟、残業してるかい?
正解はスタイラス+タブレット
自分が絵を描くのに一番の障壁になっていたのは「物が積み上がった机を片付けて、パソコンを起動すること」だった。
インターネット落書きマンにオススメする「一度描いた線をなぞれるスタイラスペン」
最後はアプリとの相性
「分不相応」という諦め方
マッドマックス 怒りのデスロード
絵を描くという呪い
久しぶりにはてなブログにやってきたので、はい。はい。とローストされた肉の写真を大量に載せたブログを書くつもりだった。
でも冷蔵庫には腐った鶏肉しか入ってない。
貧乏は敵だ。
まとめ
・「絵を描くのをやめてみたら幻想が解けた話 」に触発された懺悔。
大体承認欲求の話。
先日こんな文章を読んだ。
絵を描くのをやめてみたら幻想が解けた話 - はてな匿名ダイアリー http://anond.hatelabo.jp/20141201164139
絵は、紙とペンさえあればかける。
なんならどっちもいらない。
息を吹きかけて白くくすんだガラスの窓に指を当てて、思うがままに動かせばいい。
私はそんな、幼稚で、稚拙で、ストレートな表現方法に、自分の理想を重ねて10年以上絵を描き続けてきた。
山積みの雑務に忙殺されてやる気をなくしたりとか、口汚く新しい手法を馬鹿にする裏で必死にそれを勉強してみたりとか、大量に同人誌の在庫抱えてみたりとか、人並みのあれこれを経験してきたつもりでいる(けど、それは驕りかもしれない)。
この増田を書いた人の過去や現況を知るすべはないけれど、「ずっと自分は絵を描き続けていなければダメになるタイプの人間なのだ」と私も思っていた。
そう思っていたかったのだと思う。
絵を描ける人間としての自分はそれなりに必要としてくれる人がいたし、「絵を描かないとダメだ」と常にプレッシャーを与えていれば、その間は、人よりひどく劣った部分(コミュニケ―ション能力とか)から逃れられる。
そして、絵を描けなくなれば全ての人から見捨てられるような思い込みに囚われていた。
なんて過大な自己評価!
そんな評価をもらえるほど絵が上手いはずもなく、私のそばにいてくれる人たちの心がそんなに狭いはずもなく。
馬鹿馬鹿しく、しかしとても強い思い込みは、環境が変わるにしたがって少しずつ溶けていった。目に見えるほどに小さくなってやっと「思い込んでいたこと」を認識できるようになって、自分の力で思い込みをコントロール出来るようになった。
金銭に交換可能な技能を求められるほどの人間ではないこと。
だから、今の交友関係は大切にしていきたいこと。
そして、別の軸の話として「金銭に交換可能な技能をもった人間」と認識してもらえることは生存を助けると思うので、今度は自分であるためになんて立派なお題目じゃなく、生活のためにやっていくかな…というところ。
ホームレスの可能性がすぐそばで口を開けていて、すわ夜逃げかという生活はこの先何年も続けたくないし、一か月の仕事のうち何時間かは、酒を飲んだり音楽を聴きながらしたいよねえという話だった。
ベイマックスの登場で日本のアニメは死んだのか
もともと近代建築クラスタなので、映画の中の町並みが「近代東京とサンフランシスコのいいとこどり」かつ「近未来設定のSF」なので見たいなーと思っていた。
ところにこのツイートを見かけて、俄然見に行きたくなった。
ベイマックス見た人の殆どが「日本のクリエイティブは死んだ!!!!!」みたいな悲観的メッセージを残して無血開城されていくのがヤバ過ぎるんだけどもっと殴りあったほうがいいのでは。
— おさんぽみるく(22) (@MILKWALKEE) 2015, 1月 5
で、正月に実家に帰ると、監督ジョン・ラセターのインタビューをベースにした番組が録画されているわけで…
「魔法の映画はこうして生まれる~ジョン・ラセターとディズニー・アニメーション~」
https://pid.nhk.or.jp/pid04/ProgramIntro/Show.do?pkey=302-20141129-21-16301
ようやく見に行ったのだけど、いやもう、ほんと楽しかった。面白かった。
ピクサーとかデジタル化以降のディズニーアニメって、なんとなく感情表現の過剰さ、ストーリーの素直さ(これらがバタくさいってものだろうか)が鼻について、なおかつ3D独特のべったり感や、ハイライト・影の入り方が苦手で、足が遠のいていた。
そんな苦手意識がそっくりそのままイイネ!にかわってしまうくらい、よかった。
なんでだろう。
1、普遍的なこと
一点、技術の進歩だと思う。
どんないいストーリーだって、小説で表現が稚拙だったり漫画で絵が下手だったりすれば、手に取る人は減る。
パソコンスペックは信じられないスピードであがっていく。僕が大学に入るころ1000円のUSBって2GBだった。4年たって出てくるころには8GBが1000円で売っていて、時代流れ早すぎんなって感じだ。その結果質感や、色味が、セルアニメのような「アナログ感」のある、目に優しいムラのある感覚を「こだわれば拘るだけ再現できる」ようになった。
昔は拘ろうとしてもマシンスペック的に限界のあった領域まで、踏み込めるようになった。これは、アナログのマンパワーで仕掛けていたような宮崎アニメと対比させるのに、とても大きいなと思う。細かい感情表現を実現させるだけのマシンパワーがアナログとデジタルの境界を溶かした。
もう一つは、ストーリーが勧善懲悪じゃなくて火サスっぽい。
「悪役にもつらい過去があるんだ」みたいなストーリー、とても日本好みだと思う。火サスにおいて、荒れ狂う日本海に身投げする犯人は、彼らなりの理論にのっとって本当の悪役を恨んだ結果凶行に及ぶ場合が多いように思う。
火サスじゃないけど、半沢直樹なんかもそのタイプと思う。殺人こそおかさないが、企業人生における殺人と同等と思われる攻撃を、大和田にくらわせている。大体、犯行の動機に関わる悪役は一見いい人で世渡り上手タイプなのも面白い…というのは余談。
犯人は「倫理の道は踏み外していても、正義の道を歩んでいる」そんなストーリーに僕らはかなり親しんでいる。
それに加えて、合間合間に挟まれるロボットを擬人化したようなアトム的とも言える表現や、くど過ぎない笑い。この塩梅をディズニーが…というかジョン・ラセターが日本アニメを研究し尽くして心得てリリースしてきた、この辺りが「普遍的な日本人」に与えた大きなインパクトかなと思う。
2、僕らオタクにとって
もう一つ気になるのがオタク層へのインパクトだと思う。「日本のアニメは死んだ」とわらわら人が集まる理由はそこにあるのかな…
ベイマックス、多分、「アナと雪の女王」とは同様の扱いはされないだろう。それはこのストーリーが、一部のアニメにありがちな、僕ら「スクールカースト下位」によるスカッとする妄想談にすぎないからだと思う。
気取った調子で喋って、頭が良くて、社会に貢献してたり一部の社会では最強…でも彼女・彼氏といった標準(とされる)ステータスは持ち合わせてない…そんなナード・ギーク層の逆襲劇だと、強く感じた。翻訳版で見たせいかもしれないけど、主人公以外の若い主要登場人物は「科学オタク」という呼称があてられている。
彼らが八面六臂の活躍を見せ、「正体不明の覆面ヒーローが自らの知識を活かしてこの街を救って町中の人間に感謝されている」というストーリーに、目を潤ませた人も少なくないのではないだろうか。
加えて、ベイマックスには異性愛要素がびっくりするくらいない。映画の尺だと、「上映時間の範囲で示せる強い感情」の符丁として異性愛の存在を示すことがかなり多い。しかし、それもない。ただ「兄という肉親への愛」がベースにある。
肉親への愛は、しかも自分にとても協力的だった人への愛は誰にとっても共感できるものだと思う。だからこそ、このヒットなのだと感じた。
邪推だろうか。
「爪弾きもの」を救うのは、日本ではテレビアニメだった。結構な数のアニメが「普段は冴えないけど、本当の俺・私はすごい」という設定に基づいて、SF舞台だったり幕末舞台だったり…様々なシチュエーションで消費されてきた。(むしろ、世界中の爪弾きものを救ったかもしれないし、個人的にはそれがクールジャパンの源流だと思っている。)
だからこそ、それらを研究してオマージュしたベイマックスという作品に僕らは心惹かれるのだ。ぼーっとしてれば気付かない小ネタに胸をときめかせたり、日本的KAWAIIを体現したベイマックスに親しみやすさを感じたりする。
3.だからどうするの
http://lite-ra.com/i/2014/08/post-310-entry.html
一消費者として、ベイマックスなんか気にせず「俺がこれサイコーだって思うわ!」と感じるものを作って欲しいという感情はある(それがドンピシャなら、ホームラン級の当たりだから)。
でも、一企業人としては「金にならないものは作れない」という感覚はとっても理解できる。ターゲットを広く取らなければ、人を雇用し、作品を作って公開するだけの費用は集まらない。僕一人がどうにか足掻いたところでコンテンツを支えるだけの力はないんだなーなんて思ったりする。
情報過多の時代に「あの大ヒット作の監督による次回作!」みたいなタイトルに惹かれるのはとってもわかる。作品が多すぎて、選別が難しい。みんな間違いのないフィルターを、それによって選別された作品を求めている。だからこそ、一度そういうフィルターをとっぱらって選択肢の海に飛び込んでいきたいなと思う。
そうして、僕らが自分の力で「目」を養っていくことで、このお通夜みたいな雰囲気、ちょっとはよくなるんじゃないかなって思っている。
自分の性癖にあった浮世絵師はたとえ最初目が出なくても買い続けてやるよ、みたいな江戸っ子気質が今一番必要なのかもなーって。
説教くさくなってしまった。酒のせいだね。